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こころの絵図

弥勒寺の境内は、春には梅・桜、夏には緑・境内一面のあじさい、秋には樹齢約500年のどうだんつつじ、約800年の大銀杏の紅葉、冬には雪景色の本堂・奥之院・不動堂・御影堂(大師堂)・鐘楼堂・山門(仁王門)と四季折々の味わいがあります。
静寂な中に、歴史の重みを秘めて、散策してみてはいかがでしょうか。
夏草に埋もれた13・14世紀の板碑、多くの石仏たち、人間の生と死、喜びと悲しみ、こころの絵図をこの境内に汲みとることができるでしょう。

信仰

  • 彌勒尊は、慈の心がすぐれているため、慈氏菩薩ともいわれ、お釈迦様の後継者として、仏滅後56億7千万年ののち如来となってこの世にあらわれ、衆生を救済するとお経に説かれる未来仏です。
    弘法大師も、往生を願い、最も崇拝された仏様で、多くの人々より、除魔滅罪の功徳ある仏様として信仰されております。また、当山には、古くから、「おみろく参り」と称し、彌勒尊御宝前においてお塔婆供養をし、彌勒尊のお導きにより肉親縁者の往生を願い、菩堤を弔う信仰があります。

  • 不動明王は、すべての災難・厄難を消除し、仏法の信仰者を守護し、私たちの願いを叶えてくれる仏様です。ものに動じないので「不動」といい、真理の智慧(明)を代表し、徹底される力強い者(王)であるところから「明王」と称されています。
    不動堂の法鼓は、力強く家内安全・交通安全・厄難消除など心願の成就を祈ります。

  • 弘法大師は、真言宗の宗祖であり、その法灯を受け継ぐ当山の御影堂には、宗祖「弘法大師像」がお祀りされております。この御影堂(大師堂)に「おみろく参り」の際、故人が大切にしてきたもの、欲しがっていたものを納め、お大師様と共に同行二人で、弥勒尊のもと、兜率浄土の世界へ往生できるよう願う「奉納供養」の信仰が古来よりあります。

  • 不動堂には、また秘仏歓喜天(お聖天)がお祀りされており、多くの若人が、「縁結び」を願い、お参りに来られてます。

  • 山王堂の山王権現は、古くより「金運の神」として知られ、商人・実業家の信仰をあつめています。

  • 境内の石仏群には、肉親縁者の霊・水子の霊を慰め、菩堤を弔う香煙がただよいます。

  • 当山では、ペットのご遺骨をペット供養墓に合祀埋葬させていただいております。いとおしい動物たちの冥福をお祈り下さい。

境内散策図

【不動堂】
【山王鳥居と山王堂】
【奥之院】
当山の表参道は、国道342号線に面した石段より始まります。以前は、バス停「弥勒寺前」で下車され、この石段を登り、弥勒公園を通り、参詣された方が大勢おられました。現在は、古御坂と呼ばれる参道を車で登り、参詣なされる方が多くなりました。お時間のあるとき、表参道より山門(仁王門)を通り、諸堂を参拝し、四季折々の風情を楽しみながら参詣してみてはいかがでしょうか。

千体地蔵菩薩(千体堂)

この千体堂には、千体地蔵菩薩をお祀りしております。
地蔵菩薩は、釈尊の付託を受け、釈尊入滅後、弥勒菩薩が出世するまでの間、無仏の世界に住して六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の衆生を教化する仏様で、像容は、比丘形、左手に宝珠・右手に錫杖を持つ形が一般的です。慈悲心に富み、我々にもっとも近い仏様です。
 また、地蔵菩薩と閻魔は同一とも言われており、地蔵菩薩を信仰すれば、十福あると昔から言われています。
当山の地蔵菩薩は、沢山あることから千体地蔵菩薩といわれ、よく亡くなった人に似たお地蔵様があると言われているのは、このお地蔵様です。

擬宝珠(宝珠堂)

江戸時代後期作<寛政元年4月>
(市指定文化財)

擬宝珠とは、仏教建築などに用いられる装飾物の一つで宝珠とも言われます。方形屋根の頂・勾欄の親柱・仏塔の相輪の最頂部・橋の欄干などにつけらるものです。
形は、尖頭で、頭及び左右の側から、火焔の燃え上がっている様を表し、実相の妙理を喩え、特に如意宝珠といい、意のままに「宝を出せる」という意味です。
このお祀りしている宝珠は、旧弥勒堂の宝珠であり、銘は、寛政元年4月中旬 寺池鋳工 塚本清内 繁祉とあります。1789年4月のものです。

当山の古木

当山には、榧、銀杏、杉、檜、樫、桜、松、どうだんつつじなど多くの木々があります。
      榧(市指定天然記念物)
この榧は、樹齢約二百五十年以上で、登米市の指定天然記念物であり、当山の大銀杏、大杉、大桧、大樫などと並ぶ古木の一本です。榧は、イチイ科の常緑高木で、葉は、扁平線状、革質で厚く、先端は鋭い、4月頃開花し、実は、広楕円形で、核は、食用・薬用となり、また油を搾ることができます。材は、堅くて碁盤などに加工されます。

板碑

板碑とは、石塔婆の一種で、平板石を用い、頂を三角形に作ったものが多く、板石塔婆ともいわれます。上部に仏の種子(密教で仏などを示す梵語の文字)・仏像・法号など、中央部及びその傍に紀年・氏名などを刻み込むのが多い様です。時代は、鎌倉・室町時代に多く、死者の追善、生前の逆修供養のために建立されたものです。
当山の板碑は、正応二年(1289年)のものが、最も古く、今より約700年以上前のものです。この中には、正和二年(1313年)の五輪塔板碑もみられます。
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